▼次世代エネルギー源としての水素
▶︎水素エネルギー社会
水素は最も単純な構造を持ち,様々な分野で重要な役割を果たす非常に興味深い元素です,近年では,有害物質を排出しない燃料電池の燃料として注目を集めています.図1に示すように燃料電池は水素と酸素を燃料とし,水のみを排出します.燃料電池は小型化が容易であり,定置発電に加え自動車用の動力源としても用いられています.水素利用のさらなる普及に向け,より高効率な水素貯蔵・輸送方法の開発が求められています.その一つに,水素を液化させて貯蔵・輸送する方法があります.液化水素は,気体と比べ大量に貯蔵・輸送できることから,現在は主に産業分野で利用されています.
▶︎︎液化水素におけるボイル・オフ問題
液化水素を貯蔵する場合の問題点の一つに,液化水素が時間の経過とともに気化してしまうボイル・オフ問題があります.これは水素分子が2種類の核スピン状態を取り得ることが原因の一つです.図2に示すように,2つの水素原子核の核スピンが対称なものをオルト水素,反対称なものをパラ水素と呼びます.水素原子核である陽子がフェルミ粒子であり,常温ではオルト・パラ比は3:1です.また,その量子統計的性質から.それぞれの水素分子が取りうる回転状態が決まります.
液化水素のような極低温状態では,分子回転状態がほぼ基底状態になり,オルト水素の方が高い回転エネルギーを持ちます.オルト水素とパラ水素間の転換は非常にゆっくりとしか進行しないため,水素を冷却した際,液化水素中には高い回転エネルギーを持つオルト水素が多く存在することとなります.その後,液化水素を貯蔵している間にゆっくりとオルト・パラ転換が進み,回転エネルギー差の分だけ熱が発生し,液化水素が気化してしまいます.そのため,液化水素を製造する場合,オルト・パラ転換を促進する触媒を用意し,あらかじめパラ水素の比率を高めます.このように,液化水素の効率的な製造のためにはオルト・パラ転換を効率よく促進する触媒が不可欠です.
▶︎第一原理計算を用いたオルト・パラ転換機構の解明
新たな触媒開発には触媒反応機構の理解が重要です.しかし,水素の核スピン転換過程を実験的にを直接観察することは非常に困難です.そこで私達は第一原理電子計算と呼ばれる水素分子・触媒表面間の相互作用を正確に取り扱うことができる手法を用い,オルト・パラ転換過程の解明を目指し研究を行いました.第一原理計算とは,実験から得たパラメータを必要としないシミュレーション手法で,物質の電子状態を正確に計算することができます.
▼銀表面上での水素分子の物理吸着状態の解明
詳細はY. Kunisada et al., Physical Chemistry Chemical Physics, 17 (2015) 19625.をご覧ください.
本研究では,磁性を持たないにも関わらず,オルト・パラ転換を促進することが知られている銀に着目しました.銀表面上での水素分子の核スピン転換機構の詳細な解明に向け,まず物理吸着状態を調査しました.その結果,右図に示すように,水素分子は銀表面上では分子軸を表面に対して垂直に向けた束縛回転状態で吸着することを明らかにしました.また,この束縛回転の起源は,物理吸着状態においては重要性が低いと考えられてきた表面と水素分子間の仮想的な電子のやり取りによる共鳴相互作用であることも示しました.
▼銀表面上での水素分子のオルト・パラ転換機構の解明
詳細はY. Kunisada et al., Journal of the Physical Society of Japan, 82 (2013) 023601をご覧ください.
次に,銀表面上での水素分子の核スピン転換機構を調査しました.その結果,水素分子が自由に回転している場合と比較し,束縛回転状態にある方がオルト・パラ転換が促進されることを明らかにしました.これは,図4に示すようにオルト・パラ転換速度には分子の回転状態に依存(ステアリング効果)し,触媒性能を評価する上で水素分子の回転状態も含めた吸着状態の理解が重要であることを示唆しています.